高瀬隼子著『おいしいごはんが食べられますように』感想。「守られる側」になりきれなかったわたしの話

高瀬隼子著『おいしいごはんが食べられますように』を読んだあと、しばらく会社づとめしていた過去を思い出しました。

あらすじ

第167回芥川賞受賞!

「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。

職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。

小説なのに、現実のような感覚。そして「ああ、わたしの中にも作中の登場人物二人がいるんだな」と自分にがっかりする感覚。


わたしは「芦川」でもあり、「押尾」でもありました。

「守られる側」になった自分を受け入れられなかった

わたしはこれまで、人間関係のストレスを理由に、二度会社を辞めています。

一度は「ワーママさんが優遇される環境」に耐えられなかった。もう一度は逆に「ワーママが働きにくい環境」に耐えられなかった。今振り返ると、あれはまるで「かつて押尾側だった自分」が、「芦川側になった」ような感覚でした。

でも、わたしは完全には芦川になりきれなかった。なぜなら「昔の自分」を覚えていたからです。

頑張れていた頃の自分。
仕事ができる側にいた自分。
無理をしてでも、期待に応えようとしていた自分。

その記憶があるからこそ「守られる側」になった自分を、うまく受け入れられなかった。

「下に見られてもいい」と思える強さ

作中で芦川は「守りたくなる存在」として描かれています。でもそれはとてもキレイな表現で、現実の感覚としてはもっと複雑でした。

「弱い存在」
「面倒な存在」
「周囲に配慮を求める存在」

そんなふうに、“下側”へ落ちてしまった感覚。わたしの中には、その苦しさが確かにありました。


もし芦川みたいに、

「下に見られても構わない」
「それより、自分ができないことを無理してやりたくない」

そう堂々と立てる強さがあったなら、今も会社づとめを続けられていたのかもしれません。でもわたしは、下に見られながら、人に迷惑をかけ続けることに耐えられなかった。だから離れた。


この本を読んでいて、少し救われた部分もありました。

「ああ、やっぱり、我慢しながら働いている若い人たちはいたんだな」と。

そしてもし、自分が辞めたことで、少しでも誰かが働きやすくなっているのだとしたら。

それは完全に無意味な離脱ではなかったのかもしれない。

そんなふうにも思えました。


でも読み終わったあと、別の問いも残りました。

「守りたくなる存在」は、どうやって生きていけばいいんだろう?

「弱さ」とどう共存していけばいいんだろう

子どもでもなく、病気でもなく、
ただ“普通の大人”として生きているのに、
守られないと壊れてしまう感覚がある。

そういう人は、どこで働けばいいんだろう。


わたしは今、迷惑をかけたくなくて、引きこもるように仕事をしています。でも本当にこの働き方しかないのだろうか?


そして最後に、イジワルな考えも浮かびました。

「もし芦川しかいない職場だったら、きっと潰れる」

たぶん、それも事実なんですよね。


誰かが頑張り、
誰かが支え、
誰かが無理をしている。

社会は、そのアンバランスさの上で回っている。だから苦しい。


でも同時に、人は人生のどこかで「押尾側」にも「芦川側」にもなりうる。

ずっと強い人も、ずっと守られる人も、
本当はいないのかもしれません。

だからこそ、もっとゆるやかに、
「今日はこっち側なんだな」「自分もあっち側になる可能性はいくらでもあるよな」っていられたら。

そんな働き方や社会があったら、
もうちょっと生きやすくなるのかもしれませんね。

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