とんでもない世界なのに、妙にリアルだった
村田沙耶香さんの『消滅世界』を読みました。
人工授精で、子供を産むことが常識となった世界。夫婦間の性行為は「近親相姦」とタブー視され、やがて世界から「セックス」も「家族」も消えていく……日本の未来を予言する芥川賞作家の圧倒的衝撃作。
読み終わってまず思ったのは、
「この人、とんでもない世界観を思いつくな……」ということでした。
でも同時に、ただ奇抜なだけでは終わらない。
読み進めるほど、「これは極端なフィクションを使って、人間の根っこを描こうとしている物語なんだ」と感じました。
特に印象的だったのは、「生殖」や「性」が不要になった世界で、それでも人はなぜ生き、なぜ性行為を求めるのか、という問いでした。
母になって知った「本能としての生きる意味」
わたし自身、母になってから強く感じることがあります。
それは、「人類を絶やさない」という生物としての本能が、思っていた以上に深く身体に刻まれているということです。
今、もうすぐ小学生になる子と、まだ3歳に満たない子を育てています。
その中で、無意識に感じるんです。
「上の子は、最悪わたしがいなくても生きられるかもしれない」
「でも下の子は、まだ難しい」
だから、「わたしはまだ生きなければ」と思う。
これは理屈ではなく、本能に近い感覚です。
冷たいと思われるかもしれませんが、実際、上の子と下の子に向ける“とっさの守り方”には差があります。
もし瞬間的に「どちらを守る?」となったら、身体が勝手に下の子へ向かう気がする。
それくらい、「人類を生き延びさせる」という本能は根深い。
『消滅世界』が描いた「性が不要になった世界」
この小説の世界では、男女関係なく子どもをつくり、産み、育てることができます。
つまり、「性行為」も、「性的欲求」も、「生殖機能」すら、本来は必要ない。
それでも主人公は、性行為をやめられない。
しかも、自分でもその意味がよくわからない。
でも、その行為を通して“安堵”している。
ここが、とても印象的でした。
わたしは、この安堵は「自分がメスとして機能している」という確認なのではないかと思ったんです。
つまり、「わたしには存在理由がある」という感覚。
その世界では、誰でも子どもを産める。
自分の代わりはいくらでもいる。
だからこそ主人公は、
「女性としての身体を持っている自分」に、意味を見出したかったのかもしれない。
流産を経験してもなお、本来は女性にしかなかった“子どもを産める身体”であることに、どこか救われていたのではないか。
主人公は、「メスとしての身体」をもてあましている。
身体を通して、自分の存在を確認しているようにも見えました。
性行為は「愛の確認」になるのかもしれない
じゃあ、今のわたしはどうなんだろう?
そう考えたとき、正直、以前ほど性行為に強い意味を感じなくなっている自分がいます。
たぶん、「人類を絶やさず、生き延びさせる」という本能を、今まさに子育てで満たし続けているから。
そして年齢的にも、これから新しく子どもを産む可能性は高くない。
身体が静かに、
「ここまで、よく頑張りましたね」
と言ってくれているような感覚があります。
身体は、思考とつながっている。
だから、本能の形も少しずつ変わっていくのかもしれません。
では、これから性行為にどんな意味が残るのか。
とてもベタだけれど、「愛の確認」なのかもしれないと思いました。
お互いを喜ばせ、安心し、エネルギーを交換すること。
きっと今のわたしは、まだ子どもが小さくて、そこに向ける余白が少ないだけなのだと思います。
そして、『消滅世界』の主人公もまた、本当はシンプルに、
「性行為は、汚らわしいものじゃない」
「愛から生まれるものなんだ」
と思いたかっただけなのかもしれません。
先ほど「主人公は女性としての身体を持っている自分に、意味を見出したかったのかもしれない。」と書きましたが、ただただシンプルに。
性行為が不要とされる世界で、
性行為によって生まれた自分自身を、
「不要な存在」ではなく、「愛の結晶」だと信じたい。
そんな、とても静かで、人間らしい願いを感じる物語でした。

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